世の中には、少し棘のある表現を使って、個性的な論調で捲し立てているが中身はとても空っぽ、な人間関係Tips的なコンテンツがうじゃうじゃある。(自分は違うと思いたい)
今朝はそんな会話にぶち当たってしまって、気分が良くない1日のはじまり。
でも、そういう話を聞くことによって、自分の考え方だったりを改めて捉え直すことができるので、嫌いではない。たまに意識的に摂取する。
自分を客観視して、あーもうそろそろ自分はこうなるんじゃないか、こういう気持ちになってこういう行動・選択をするんじゃないかって、予測をしてしまうことが増えた。昔はあまりそんなことはなく、今この瞬間に集中できていた。気がする。
なんでこうなっちゃったんだか・・
いろんなことにのめり込みたいし、のめり込んでいるけど、ふと、ブワァ!って水の中から顔を上げる瞬間がある。
あー終わり?もうすぐ終わっちゃう?って、自分で想像して悲しくなる。
終わりの未来を想像して、その時がなるべく来ないように、遠ざけたくて、また水の中に潜る。
水の中に潜らないで常に水の中を歩いていればいいじゃん、ジムのプールにいる婦人のように。という人もいるかも。
でも、それじゃつまんない。つまんないんだよなー。
何事にも終わりがあるけど、そんなこと考えながら過ごすのではなくって、今を楽しむ。それがなんとか哲学の考え方らしい。
まあそうするしかないよね。でも、”終わり”を体験すればするほど、その記憶は濃く深く刻まれていくから、自分の中での存在感が増していく。
ひとときの終わり、1日の終わり、関係の解消、離別、死別、終わり。
全てには、人間の全てには、終わりがあるんだよなあ。
物理的に終わっても、人には記憶があって、記憶の中で生き続ける。そういう考え方で、救われることもある。
(大崎善生の『パイロットフィッシュ』のはじまり方がそんな感じだった。とても好きな本。)
でも、自分がなくなったら、その記憶もなくなる。人の記憶からも消える?それが怖いし悲しいのかな。
でもやっぱりそう考えると、物理的な終わりに対して人間は抗うことも超えることも、できないのかもしれない。
終わりは終わり。終わりははじまり、ではなくて。
でも、人間にしかないのが終わり。いいことでもあるのかもです。
あとは、”忘れる”ということ。記憶から消えることを恐れる一方で、”忘れる”ということも、人間のとても素敵な能力だと思う。
どうしようもなく悲しいことや、忘れられない痛みも、意識的に”忘れる”ことで、救われることもある。
終わりたくない、けど忘れることも時には必要。
みんな、相反するものの間で常にゆれながら生きているのかなー☆